数年前に書いてた日記の転載です。
私の希死念慮の一因でもある母親の存在が、信仰の中でどう変わっていくのか、記録として残すことにしました。
ここ15年以上、実家に近寄るのが怖かった。
元々機能不全だった実家は、祖母の自宅介護で完全にぶっ壊れました。
些細なことでキレてしまう母の隣にいるだけで、精神がギシギシと蝕まれ、たった3日間の帰省でも、自宅に帰ってから1週間は精神的ダメージを引きずってました。
昨年までは。
1年ぶりに帰省した実家で、母が少し落ち着いてみえたのです。
祖母が亡くなってから10年。人は心を癒すには10年かかるのかもしれません。
目次
機能不全だった家で育った私
私は、母親の愚痴を一人娘の役割として、受け止め続けてました。
幼い頃は、大好きな母から相談されてる=愛されてると思っていましたが、社会人になった辺りからそうした盲信的な母との関係は少しづつ壊れていきます。
私には兄が居ます。兄と私の役割は明確に線引きされており、兄は兄で、私にはなかった苦労をしてるでしょう。
メンタルの弱かった母が徐々に壊れ始めた
祖母の介護が始まった辺りから、母は徐々に壊れていきました。
長年自分に辛く当たっていた姑ですから、辛いのは当然のこと。
そして、子供が幼い頃から、家族に対して毒を吐くことに慣れ切ってしまっていた母。
感情をはけ口として向けられたのは、やはり娘である私でした。
私からの些細な返答にキレて、どなり声を上げ、収まりきらない感情から食器を床に叩きつけて割る。
それらは全て私と母だけの閉じられた空間での出来事。
同じ家族でも息子である兄にはそういった行為は決して見せませんでした。
母は本当にずるかった。
壊れてるようで、壊れてなかった。
それが娘の私には苦しくてしかたなかった。
祖母の命はいつか消える。そうすればまたいつも通りの日常に戻れるはず。
そう思って耐えるしかなかった。
祖母が死んだ時は本当にほっとした。
絶望したのは、祖母の死後も変わらなかった母
何より絶望したのは、原因であると思っていた祖母が亡くなっても母の猛毒が収まらなかったこと。
同居している姑の目がなくなったことで、さらに悪化していました。
「祖母が原因ではなく、元々母はこういう人だったんだ」
両親を監視し、コントロールする祖母さえいなければ、普通の家庭だったかもしれない、と子供の頃からよく思っていました。
でもそれは勘違いだったのかもしれない。同居してる祖母がいたからこそ、母親の毒はあの程度で済んでいたのかもしれない。
ずっと煩わしい存在であった祖母への思いに変化がおきました。
この頃はもう『母』がどういう人間なのかわからなくなっていた。
離れるしかない、そう決断しました。
実家と距離を置いた5年間
祖母が亡くなってから実家と約5年間距離をおきました。
その間に母方の祖父が亡くなりましたが、葬式にも参列せず、距離を置き続けました。
元々メンタル過敏な母なので、私の変化には気づいてましたが、あえてそこには触れず、あたりさわりのない連絡だけが続いていました。
私自身、仕事が忙しかったこともあり、あっという間の年数で、ふと思い出すことがあっても、このまま家族という存在がこの世から消えてくれたらどんなに楽になるだろうか、と思う程度でした。
父がガンになり久々の帰省
そんな中、父に肺ガンが見つかりました。
すでに骨に転移しており、ステージ4。
父の様子を見るため、昨年5年ぶりに帰省した私の目に映ったのは、相変わらず猛毒を撒き散らす母の姿でした。
ただ、その矛先が私ではなく、父になってました。
娘を失った5年間、母は父を攻撃するようになっていたのです。
以前であれば、家族に目を光らせていた姑も亡くなり、居ません。
ようやく母にとって姑から守ってくれなかった父への復讐の時間が始まったのかもしれません。
たった3日間の滞在でしたが、5年ぶりの再会の懐かしさみたいなものは一切ありませんでした。
ただただ疲れただけ。
お正月に、終わりの近くなった父を見舞った
そしてこのお正月。
自力呼吸の難しくなってきた父を見舞うため4日間滞在しました。
帰省前はすごく迷った。
4日間なんて帰れるだろうか、でももうこれが父とは最後かもしれない。
不安を抱えての到着した最寄駅の改札から母の車が見えた。
こんな心境でも母の車が見えた時、ほっとする自分がいる。
母の毒が弱まっていた
父の死期が近づいてるからだろうか。
祖母の死後10年が経過し傷が癒え始めたのだろうか。
母はびっくりするほど、『普通』に近づいてました。
4日間久々に実家で安心して過ごせた。
夜中から明け方まで今の仕事や夫との話をした。
信じられないほど、穏やかな会話だった。
母は一体何と戦っていたのだろう。
以前、「夫のちんぽが入らない」の著書こだまさんが以前こんなツイートをしていました。
『She is』の特集「ははとむすめ」にちなんだエッセイ『壊れた母と、壊れた私』を書きました。私の母は世間でいう「毒親」なのでしょうが、私はその言葉が苦手なので自分の親には使いたくない。毒だったのかもしれないけど、今は一緒にいたい。https://t.co/jW0nlOUiWk
— こだま (@eshi_ko) 2017年11月1日
このツイートを読んだ時、信じられなった。
こだまさんも実母と苛烈な経験をしてます。どうして許せるんだろう。
その理由が今回の帰省で少しわかった気がします。
あんなに恐ろしく、そして憎かった母が、おだやかになったのを見ると、うれしかった。
他人ならこんな感情とてもじゃないけど湧きおこらない。
母の存在というは、厄介で恐ろしい。
嫌悪しながらも不安だった母の将来
こんなにも苦しみを与えた存在なのに、母の将来が不安でした。
あんな性格では、誰も寄り付かない。
家庭内ではサディストだった母は、家庭から1歩でれば何もできない無力な主婦。
父を亡くした後は一体どうやって生きていくんだろう。
母がまともに近づいたことで、距離をおけば支えれるかもしれないと思えほっとする自分がいました。
親を憎む、忘れる、それはとてつもなくエネルギーのいること。
家族が消えてなくなってくれたら、と思いながらも、その問題が自然と解決されることを心の奥底では願っていたんだな、と。
私は完全に毒親と決別は出来ませんでした。
まとめ:狂っていた母が15年ぶりに回復した
以上がこの15年におきた母と私との関係のお話です。
毒親は基本的に変わりません。
毒親関係の書籍を何度も何度も読んで自分に納得させてきました。
それでもいつか変わってくれるんじゃないか、という思いをこの15年間何度も願っては絶望してきました。
そして15年目にして変化が訪れました。
これからまた母との関係性がどうなるかわかりませんが、また何かあれば書きとめたいと思います。