算命学を学び始めてから、私の中で大きく変わった価値観があります。
人の宿命を尊重する
それは「人にはそれぞれ、生まれ持った宿命や、自然に沿った生き方がある」ということ。
これまでは「こう生きるべき」「こうするのが正しい」といった世間一般の価値観に、無意識のうちに自分も縛られ、また時には他人に対してもそうした考えで勝手な評価をしてしまってました。けれど算命学に触れるうちに、それがどれほど危うく、そして残酷なことかに気づいたのです。
例えば、自分が正しいと信じている生き方を善意から誰かに勧めたとしても、それはその人の宿命や魂の設計図を無視した行為になりかねません。
相手にとって自然な生き方を否定し、別の道を強要することは、その人の本来の可能性や飛躍のタイミングを奪ってしまう――そんなリスクすらあるのです。
世の中には、自分の価値観を人に押し付け、思い通りに動かない相手を人格ごと否定してしまうような人もいます。それがたとえ「善意」からだったとしても、算命学の視点から見ると、これは非常に大きな問題を孕んでいます。
他人を否定する人に起きること
他人に自分の価値観を押し付け、それに従わなかったからといって人格否定までしてしまう――そういう人は、算命学的には大きく二つのリスクを背負うことになります。
1. 自分の宿命から外れる
人に過干渉したり、過度にコントロールしようとする行為は、自分の「本来の役割」から逸れることになりやすいです。
算命学では、宇宙の流れに逆らった生き方をすればするほど、自分の運勢のバランスが崩れ、やがてそれが現実のトラブルや孤立、人間関係の破綻などとして表れてきます。
2. 「陰徳」を積むどころか「陰徳」を削る
他人の宿命や自由意志を尊重することは「陰徳を積む」行為。一方で、それを否定し、強制するような生き方は、見えない徳(運の貯金)を失っていくことになります。
それはすぐに表面化しなくても、いずれ回りまわって自分の人生の壁として返ってくる可能性があります。
3. 天の理に逆らうと「天中殺」のような不調が長期化することも
他人の宿命を否定することは「天の理」に逆らう行為と見なされることがあり、実際には天中殺期以外でも運気のブレが大きくなり、停滞や誤判断、無力感に悩まされることがあります。
こういった人は、「正しさ」や「善意」を盾にしていることが多いので、自分が人を傷つけていることに気づかない場合も多いです。でも、算命学を知っていれば、「人にはそれぞれの天命がある」という視点から、自分を正当化する前に一歩引いて考える余裕が生まれます。
自分への自戒を込めて
「こうあるべき」という一律の価値観で、人の人生を測ることはできません。
十人十色という言葉の通り、人の数だけ宿命があり、それぞれに合った歩み方があるのだと、今では心からそう思えるようになりました。
算命学は、誰かを型にはめるための学問ではなく、その人の“自然”を読み解き、尊重するためのもの。
だからこそ、自分の価値観を他人に押しつけることなく、それぞれの道を信じて見守ることが、本当の意味での「優しさ」や「思いやり」なのだと感じています。
この気づきを忘れずに、自分自身にも、そして周囲の人にも、もっと自由で優しい目を向けていきたいと思います。